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2024.12.09 経済金融

日本が「安い国」になった原因は生産性の低下なのか
失われた30年と日本経済の再興(3)

井上 智洋

 本連載第1回で、「日本が安い国になった」というよくある言い回しは、1995年以降の「実質実効為替レート」の下落として表されていると述べた。実質実効為替レートは、一般には「円の実力」と言われているが、実際には「対外的な相対物価」を意味している。実質実効為替レートが上がれば日本は外国に比べて物価の高い国になり、下がれば物価の安い国になるのである。

 そして、日本の実質実効為替レートが下落傾向にあったのは、以前は主に「物価要因」によっていたが、近年では「為替要因」によっている。すなわち、日本が安い国になったのは、1995年以降はデフレ(ないし低インフレ)が主要因であったが、2013年以降は「異次元緩和」による円安化が主要因となっている。

  そもそも、アベノミクスの下で異次元緩和を実施しなければならなかったのは、デフレが長く続いたからだ。すると図1のように、日本の実質実効為替レート下落について円安という為替要因の因果関係をさかのぼっても、結局のところデフレに突き当たる。

【図 1】マネーストック低迷の波及メカニズム

 それでは、なぜ日本でデフレが長く続いたのか。この点については、本連載第1回で世の中に出回るお金である「マネーストック」があまり増えなかったからだと述べた。

 図2は、日本の「貨幣成長率」(マネーストックの増大率)と「インフレ率」(GDPデフレーターの上昇率)の推移を表している。貨幣成長率は左軸で、インフレ率は右軸で表されており、いずれも単位はパーセント(%)である。

【図 2】 日本の貨幣成長率とインフレ率の推移

 通常、インフレ率というと「消費者物価」(CPI)の上昇する割合を意味することが多いが、ここでは「GDPデフレーター」の上昇する割合を用いた。消費者物価が消費財のみの物価指数であるのに対して、GDPデフレーターが経済全体に関する物価指数だからである。

 また、消費者物価は輸入品の値上がりや消費増税の直接的な影響を受けるが、GDPデフレーターはこうした要因の直接的な影響を受けない。そのような理由により、貨幣成長率がインフレ率に与える影響を見るには、消費者物価よりもGDPデフレーターの方がふさわしいと言える。

 それでも、GDPデフレーターの上昇率は1986年頃には円高と資源価格下落によって落ち込んでいる。反対に、消費増税のあった1997年(税率5%)と2014年(同8%)、2019年(同10%)には、引き上げられている。GDPデフレーターといえども、そういった撹乱(かくらん)要因の間接的な影響は免れられない。さらに、2009年にはリーマンショックの影響で落ち込んでいる。

 このような特殊事情を除外すれば、おおむねインフレ率は貨幣成長率に連動すると言えるだろう。特に、1990年のバブル崩壊を境に両者とも大きく落ち込んでいる。マネーストックの低迷こそがデフレの原因であり、実質実効為替レートが下落した根本的な原因なのである。

「安い国」の因果を巡る名目賃金と実質賃金の混同

 ところが、日本の対外的な相対物価の低下を論じた一般書では、生産性の低下(ないし低迷)によって物価が下落して安い国になったと述べられていることが多い。その因果関係は、およそ以下のように要約できる。

 「生産性が上がらないから賃金が上がらない、賃金が上がらないから物価も上がらない」

 これを図式化すると、図3の下の部分のようになる。「↓」はそれぞれの指標が低下ないし低迷していることを表している。「生産性↓⇒賃金↓⇒物価↓」というこの因果関係は、一見もっともらしく思えるが、恐らく間違った理屈に基づいている。

【図 3】 生産性・賃金・物価の関係

 まず、前述の要約文には「賃金」という言葉が2回出てくるが、最初の賃金は「実質賃金」で後の賃金は「名目賃金」と解釈すべきであろうか。名目賃金というのは、「給料が月額20万円」といった賃金の額面である。それに対して実質賃金というのは、物価に対する名目賃金の割合である(図4)

【図 4】 実質賃金の定義式

 給料が20万円のままであっても、100円だったおにぎりが200円に値上がりすれば、月給で買えるおにぎりの量は2000個から1000個に減ってしまう。名目賃金が変わらなくても、物価が上がれば実質賃金は目減りして生活は苦しくなるのである。従って、名目賃金と実質賃金の区別は重要だ。

 「生産性が上がらないから実質賃金が上がらない」というのは、経済学的には自明の理と言えるだろう。生産性は通常「労働生産性」を意味しており、一人の労働者が生み出す付加価値(生産量)を意味している。生産した商品から得られた儲けは、労働者の取り分である「賃金」と資本家の取り分である「利子・配当」に分配される。

 労働者の取り分の割合である「労働分配率」は、近年の日本ではおよそ60%前後でそれほど大きくは変化していない。労働分配率をもう少し上昇させる余地はあるが、生産性が上がらなければ持続的な実質賃金の増大は見込めない。

 「名目賃金が上がらないから物価も上がらない」というのも、おかしな点はない。名目賃金の上昇は人件費の増大を意味しており、企業としては利益を確保するために価格を引き上げなければならない。名目賃金が上がらなければその必要に迫られない。

 しかしながら、この2つを連結して、「生産性が上がらないから賃金が上がらない、だから物価も上がらない」と主張することはできない。なぜなら、実質賃金と名目賃金は異なるからだ。

 すなわち、「生産性↓⇒実質賃金↓」と「名目賃金↓⇒物価↓」がそれぞれ正しかったとしても、この2つを連結して「生産性⇒賃金⇒物価」とすることはできないのである(図3)。

「賃金と物価の好循環」に関する疑問

 そういう意味では、岸田文雄前政権が掲げた「賃金と物価の好循環」というキャッチフレーズも危うさを抱えている。この「賃金」は、名目賃金なのか実質賃金なのか判然としない。それ故に、一体どのようなメカニズムによって日本経済を望ましい状態へ持っていくのかが見えにくかった。

 そして実際に、望ましい状態はもたらされず、もくろみは失敗に終わったと一般には見なされている。恐らくは、名目賃金と実質賃金を一緒くたにすることから、このキャッチフレーズが生み出されたのであって、それがそもそも間違いの元なのである。

 一見似ているが本当は異なる2つの概念を混同するという勘違いは、人々が日常的に経験することだろう。ただ不思議なことに、専門家が自分の専門分野でそのような過ちを犯すことも多い。少なくとも、経済学者についてはそういう傾向が観察される。

 「マネタリーベース」と「マネーストック」はいずれも貨幣だが、前者は銀行が決済に使う特別なお金で、後者は私たちが買い物などで使う普通のお金である。両者は異なった概念であるが、経済学者でさえも両者を峻別(しゅんべつ)せずに「貨幣」として扱って、おかしな結論を導き出すことがある。

 それと同じように、名目賃金と実質賃金を一緒くたに扱う人は経済学者の中にも少なくないので、その点注意しなければならない。結論を導くのに差し支えなければいちいち「実質」や「名目」を付けなくても構わないが、そうでなければ両者は峻別されなければならない。

実質賃金の増大は物価を上昇させるか

 仮に、前述の要約文の賃金を両方とも実質賃金と解釈したらどうだろうか? つまり、「生産性↓⇒実質賃金↓⇒物価↓」が成り立つかどうか。この因果関係も一見もっともらしく思えるが、標準的な経済学の教科書に基づくと成り立つとは言えない。

 正確に言うと、短期的には成り立つ可能性もあるが、長期的には成り立たない。私たちが議論しているのは、日本が長期的な趨勢(すうせい)として安い国になったのはなぜかという争点を巡るものなので、その点ではやはり教科書に反していることになる。

 教科書的なフレームワークにおける短期理論では、通常、景気が良くなることで雇用量(雇われている労働者の数)が増大することはあっても、生産性は変化しない。だが、実際には景気が良くなることで、一人一人の労働者がせわしなく多くの仕事をこなすようになり、統計上生産性が上がることはある。

 そうすると、企業の収益が増大するとともに実質賃金が増大し、消費需要が増大して物価が上昇する。当然その逆に、景気が悪くなることで生産性が低くなり、回り回って物価が低下することも起こり得るだろう。

 このように、短期理論では短期的変動に注目するのに対して、教科書的な長期理論では長期トレンドに注目する(図5)。長期トレンドにおいては、需要超過も需要不足も存在しないので、消費需要が増大することによって物価が上昇するということは起き得ない。

【図 5】 長期トレンドと短期的変動

 理論上、長期において、物価(というかインフレ率)を決定づけるのは、貨幣成長率と実質経済成長率である。つまり、

 インフレ率=貨幣成長率—実質経済成長率

 という関係が成り立つのである(これに加えて、資源価格の上昇や労働組合による賃金上昇圧力などもインフレ率に影響する可能性があるが、今はこれをおいておく)。

 お金が増えた分、物価が上がるというのは理解しやすいだろう。ただし、経済が成長した分、より多くのお金が取引に使われるようになるので、物価の上昇はお金の増大から成長分を除いた残りに相当するということになる。

 そして、生産性の上昇率が上がると、実質賃金の上昇率とともに実質経済成長率も引き上がる。従って、むしろインフレ率は低下するのである。逆に言えば、日本の生産性が低迷していたのであれば、理論的にはインフレ率は上昇するはずだ。

 極端なケースとして、戦争で工場などの生産設備が破壊されて、労働者はいるもののあまり商品を生産できない状況を想像してほしい。その場合、労働生産性は極端に低くなり実質賃金は大幅に下落し、物価は大幅に上昇するだろう。

 ところが、バブル崩壊後の日本経済はインフレ率の低迷に陥っていたのである。上記の関係に基づけば、やはり生産性の低下ではなく貨幣成長率の低下こそがインフレ率低下をもたらしたと考えるべきだろう。

 あるいは、「生産性↓⇒名目賃金↓⇒物価↓」というような因果関係を想定しても、標準的な理論とは齟齬(そご)を来すことになる。先ほどの場合と同様に、生産性が低迷すれば、物価は上昇するはずであるからだ。

 標準的な理論に基づかない主張をしてはいけないということは全くないが、それならば標準的ではない何かしらの理論が必要となる。だが、「生産性の低下が物価の下落をもたらし、日本を『安い国』にした」と論じている書籍で、そのような理論が示されているのを見たことがない。

 ただし、国際経済学の教科書では、生産性が高まると実質実効為替レートが上昇するという「バラッサ=サミュエルソン効果」が紹介されている。これは、生産性が高まると国内物価が上昇するという意味ではないので、その点注意が必要だ。あくまでも、対外的な相対物価が上昇するのである。

 日本経済に関するいくつかの専門書や論文では、「日本の生産性が低迷してバラッサ=サミュエルソン効果が逆に働き、実質実効為替レートが下落した」と主張されている。果たしてこの主張は正しいのだろうか。この点については、次回で詳しく議論したい。

写真:ZUMA Press/アフロ

第4回に続く)

井上 智洋

駒澤大学経済学部 准教授
慶應義塾大学環境情報学部卒業。早稲田大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。2015年4月から現職。博士(経済学)。専門はマクロ経済学、貨幣経済理論、成長理論。主な著書に『人工知能と経済の未来』『ヘリコプターマネー』『人工超知能』『AI時代の新・ベーシックインカム論』などがある。

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