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2025.02.13 経済金融

「逆バラッサ=サミュエルソン効果」によって日本は「安い国」になったのか
失われた30年と日本経済の再興(5)

井上 智洋

【これまでの連載】
第1回:「円の実力」はなぜ下落したのか 実質実効為替レートと異次元緩和
第2回:「安い国」を脱する方策はあるか 日銀のジレンマと第三のケインズ政策
第3回:日本が「安い国」になった原因は生産性の低下なのか
第4回:バラッサ=サミュエルソン効果とは何か——生産性と「安い国」の関係を深掘りする
第5回:「逆バラッサ=サミュエルソン効果」によって日本は「安い国」になったのか(今回)

 前回は、生産性が高まると対外的な相対物価である「実質実効為替レート」が上昇するという「バラッサ=サミュエルソン効果」(BS効果)について説明した。

 日本では、1995年までは実質実効為替レートが上昇しており、それは製造業など貿易財産業の生産性上昇が原因だと一般に考えられている。この期間の日本経済はBS効果の格好の例と見なされているのである。

 上記期間の実質実効為替レートの上昇は、主に円高によってもたらされた。日本は、貿易財産業の生産性の上昇に伴って、より安価でより高品質な貿易財(「財」のうち、自動車や家電製品など輸出入できるモノ)を供給できるようになり、輸出が増大している。そして、輸出の増大によって貿易黒字が膨らみ、円高が進行した。

 それとは対照的に、1995年以降の実質実効為替レートの下落は、円安ではなく主に物価の低迷(デフレ、低インフレ)によってもたらされている。この物価の低迷は、生産性が低迷して「逆BS効果」が働いたために生じたのだろうか。

英独より高かった日本の生産性

 今一度確認すべきなのは、「日本で生産性の低迷がどの程度生じたか」ということだ。確かに、それまで急速に生産性を伸ばしていた日本は、1990年代前半に生産性の伸びが鈍くなった。

 逆に、米国の生産性は同じ時期に伸びが高まっている。結果として、日本の実質労働生産性上昇率は、米国に比べて低くなったが、その他のG7(主要先進7カ国)と比べれば遜色はない。公益財団法人日本生産性本部によると、主な貿易財産業である製造業において、1995〜2018年の平均的な実質労働生産性上昇率は、米国が3.7%とかなり高い。日本は2.7%で米国よりは低いが、英国の2.2%やドイツの2.1%と比べれば高い。

 生産性の低迷によって、日本の実質実効為替レートが低下したというのならば、生産性上昇率が日本より低かった英国なども同様に低下していなくてはならない。だが、図1を見て分かるように、そのような低下傾向は生じなかった。日本だけが著しく実質実効為替レートを下落させているのである。この時点で既に、逆BS効果仮説の妥当性は低いと言わざるを得ない。

【図 1】 英国・米国・日本の実質実効為替レートの推移

逆BS効果では説明できない業種別の賃金変化

 さらに、賃金の動向に鑑みても、逆BS効果が働いた痕跡を見つけることはできない。逆BS効果の因果関係の連鎖を図式化すると、

貿易財産業の生産性↓⇒貿易財産業の賃金↓⇒非貿易財産業の賃金↓⇒非貿易財の価格↓⇒全体の物価↓

 となる。ただし、「↓」は必ずしも絶対的な下落を意味しているわけではなく、外国と比べての相対的な「低迷」を表している。実際の日本経済で、上記のような因果関係の連鎖が生じただろうか。

 ここで1995年以降、「実質実効為替レート」が大幅に低下しているのに対して、世界のさまざまな通貨に対する円の相対価値である「名目実効為替レート」はそこまで低下していないことに注意しよう(詳細は本連載第1回参照)。2011年ころまではむしろ上がり続けている(図2)。

【図2】 日本の実効為替レートの推移

(注1)名目と実質いずれのレートも2020年1〜12月の数値の平均を100としている
(注2)グラフは各年の1月の数値を用いている
(出所)日本銀行ウェブサイト

 そうすると、「貿易財産業の賃金↓⇒非貿易財産業の賃金↓」で表される対外的な(つまり、海外と比べた相対的な水準で見て)賃金の低迷が生じたとするならば、円安ではなく、国内における名目賃金の低迷という形で起きたはずだ。それも、貿易財産業における賃金の低迷に引きずられるようにして、非貿易財産業における賃金の低迷が生じていなければならない。

 ところが図3を見ると、非貿易財(「財」のうち、輸出入できないもの)を多く提供している卸売業・小売業は1997年から賃金が下落し、(卸売業・小売業以外の)サービス業は2000年から賃金が下落している。一方、主な貿易財産業である製造業は、賃金の伸びが鈍くなっているものの、図3が示す期間中は下落には至っていない。従って、「貿易財産業が賃金下落を牽引した」と言うことはできないのである。

【図3】日本の業種別賃金(所定内給与)推移

なぜ逆BS効果は働かなかったのか

 逆BS効果仮説が正しいのであれば、貿易財産業の賃金低迷に合わせて非貿易財産業の賃金も低迷して、賃金は均等化されるはずである。貿易財産業の賃金が低迷すれば、貿易財産業から非貿易財産への転職希望者が増大し、非貿易財産業は簡単に人手を確保できるようになり、それほど賃金を引き上げなくて済むようになるからだ。

 だが、労働市場の流動性が低い(転職が盛んでない)場合、この調整作用はすぐには働かない。貿易財産業の賃金が非貿易財産業の賃金より著しく低くなったからと言って、貿易財産業から非貿易財産業への転職希望者が急には増大しないからだ。

 日本は、伝統的に終身雇用制度が敷かれていたが、それでも2000年くらいまでは転職希望者数は年々増大していた。ところが2000年代には、デフレ不況の深化により転職希望者数は落ち込んでいる。「大多数が今の会社にしがみつき、労働市場の流動性が低くなっており、逆BS効果は働きにくくなっていた」と言えるだろう。

 その一方で、バブル崩壊後、世の中に出回るお金である「マネーストック」が低迷する中で、企業が投資を控えるだけでなく、家計が消費を控えるようになった。そのため、貿易財産業も非貿易財産業も価格を下げざるを得なくなり、賃金も低迷した。

 ただし、輸出という活路が残されている分、貿易財産業の方が、景気低迷による賃金抑制効果の影響は小さい。実際、1995年からリーマンショック直前の2007年までに、日本の輸出額は40兆円から、2倍の80兆円以上にまで劇的に膨らんでいる。

 これに対して、非貿易財産業は、輸出という活路がないので景気低迷の影響をもろに受けて、賃金下落にまで至った。要するに、非貿易財産業の賃金は、逆BS効果の働きで引き下げられるよりも早く、景気悪化の影響で著しく引き下げられたのである。

写真:ロイター/アフロ

第6回に続く)

井上 智洋

駒澤大学経済学部 准教授
慶應義塾大学環境情報学部卒業。早稲田大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。2015年4月から現職。博士(経済学)。専門はマクロ経済学、貨幣経済理論、成長理論。主な著書に『人工知能と経済の未来』『ヘリコプターマネー』『人工超知能』『AI時代の新・ベーシックインカム論』などがある。

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