【これまでの連載】
第1回:「円の実力」はなぜ下落したのか 実質実効為替レートと異次元緩和
第2回:「安い国」を脱する方策はあるか 日銀のジレンマと第三のケインズ政策
第3回:日本が「安い国」になった原因は生産性の低下なのか
第4回:バラッサ=サミュエルソン効果とは何か——生産性と「安い国」の関係を深掘りする
第5回:「逆バラッサ=サミュエルソン効果」によって日本は「安い国」になったのか
第6回:生産性低迷と物価低迷は「因果関係」か「同時進行」か(今回)
前回までに、日本の対外的な相対物価、すなわち「実質実効為替レート」の低下は生産性の低迷によるものではなく、世の中に出回るお金である「マネーストック」の低迷によるものだと論じてきた。生産性の低迷によって実質実効為替レートが低下したとする「逆バラッサ・サミュエルソン効果仮説」(逆BS効果仮説)は、間違っていたということになる。
ところが図1を見ると、1995年頃から、米国に対する日本の生産性の割合が低下するとともに、日米間の実質為替レート(2国間のため、実質実効為替レートではなく実質為替レートとなるが、「対外的な相対物価」という意味は変わらない)は円安へ向かっている。逆BS効果が働いていないのであれば、なぜこの同時進行は起きたのだろうか。単なる偶然なのか。
【図 1】 日米の生産性比率と実質為替レート

バブル崩壊を境に生産性は低迷
ここで今一度確認が必要なのは、生産性の定義である。生産性というのは一般的には、「一人当たり労働生産性」を指している。一人の労働者がどれだけの付加価値を生み出したかということだ。 一企業について言えば、「企業が生み出した付加価値」を従業員数で割ると、一人当たり労働生産性が得られる(図2)。
【図 2】 企業における労働生産性

国全体について言えば、一人当たり労働生産性はGDPを就業者数(働いている人の数)で割ることで得られる(図3)。GDPは国内で生み出された付加価値の合計なので、それを就業者数で割ると、一人の労働者が生み出した付加価値が算出されるというわけだ。
【図 3】 国全体における労働生産性

日本のGDPは約600兆円であり、就業者数は約6800万人なので、一人当たり労働生産性は約882万円となる。ただし正確に言うと、これは「一人当たり名目労働生産性」であり、名目GDP同様に物価が上がるだけで上昇してしまう。
それ故、一人当たり名目労働生産性から物価の変動を取り除いた「一人当たり実質労働生産性」こそが、一般に生産性として扱われている。このような生産性の増える割合は「生産性上昇率」であり、この上昇率が低下することを、ここでは「生産性の低迷」と呼ぶことにする。
図4の青いグラフは、生産性上昇率の推移である。オレンジのグラフは1993年以前の生産性上昇率の平均値とそれ以降の平均値を表している。
【図 4】 生産性上昇率の推移とその平均値
日本は、バブル崩壊後の1993年頃から本格的な不況に突入しているので、そこを境に分けているのである。1993年以降は、それ以前と比べると明らかに、生産性が低迷していることが見てとれるだろう。
理論通りにならない「統計上の生産性低迷」
教科書的な理論に基づけば、生産性の低迷は供給側の問題であり、需要側の問題ではない。景気が悪化して需要(モノやサービスを購入しようとする量が不足すると、就業者数が減少してその分失業者数が増大するが、生産性には変化がないものと想定されているのである。
図5は、生産性と就業者数、GDPの関係を表した概念図である。横軸に就業者数を取り、縦軸に生産性を取っている。「就業者数 ? 生産性=GDP」であり、これは青く塗りつぶした長方形の面積に相当する。
【図 5】 生産性・就業者数・GDPの関係を表す概念図

就業者数と、「働く意思と能力のある全ての人が職に就いている状態」を示す完全雇用(正確には完全雇用水準の就業者数)との差が失業者数である。失業の分だけ需要不足が発生しており、これは水色の長方形の面積で表されている。こうした需要不足を解消する財政金融政策の効果は、図5における右向きの矢印として表せる。
同じ図5の上向きの矢印は、生産性の上昇を表している。生産性は、技術進歩や設備投資といった供給側の要因によって上昇する。従って、研究開発を怠って技術進歩が鈍化するなどの、供給側の問題によって生産性の低迷は引き起こされるとされている。これが、教科書的な理論の想定である。
しかし、統計上の生産性は、実際には景気が悪化し需要が不足することによっても低迷する。それは、景気が悪化しているにもかかわらず、失業者数がさほど増大しないケースで発生する。
その場合、企業全体の業務量が減少した分、一人当たりの業務量が減ったり、いわゆる「社内失業」が発生したり、「資本の稼働率」が下がったりして、統計上の生産性が低迷するのである。
ここでいう「資本」とは生産設備のことで、製造業であれば製造機械であり、観光業であればホテルやレジャー施設などである。これらがあまり使用されなくなるのが、資本の稼働率が下がった状態だ。
景気が悪化して、ホテルの空室が増える状況を思い浮かべてほしい。そうした場合、売上や利益は減少しているのだから、本来は従業員を解雇しなければ、一人当たりの付加価値は減少するが、日本企業は長らく、景気が悪くてもすぐには従業員を解雇しない傾向にあった。かくして統計上、生産性が低下したことになるのである。
ところで、上記のような状況だと、需要の過不足を示す「GDPギャップ」が低下しても、失業率はそれほど上昇しない。
GDPギャップは「潜在GDP」からのズレを表している。潜在GDPは理論的には完全雇用水準のGDPだが、統計上は過去の平均的な雇用状態(や資本の稼働率)で得られるGDPの水準である。後者のような潜在GDPは特に、「平均概念の潜在GDP」と呼ばれる。平均概念であるがために、実際のGDPはこのような潜在GDPより多い場合も少ない場合もあり得る。
GDPギャップ(正確にはGDPギャップ率)は、図6のような式で表される。
【図 6】 GDPギャップ率の定義式

図7の「0(ゼロ)」が潜在GDPの水準である。そこからのズレがGDPギャップであり、オレンジのグラフで表されている。GDPギャップは、景気が改善すると上昇し、景気が悪化すると下降する。GDPギャップがプラスであれば潜在GDPに対して需要が超過しており、GDPギャップがマイナスであれば潜在GDPに対して需要が不足している。
【図 7】 生産性上昇率・GDPギャップ・失業率の推移

図7を見ると、バブル崩壊直後の1990年から1992年の景気後退期に、GDPギャップが急激に低下している。それにもかかわらず失業率はそれほど上昇しておらず、生産性上昇率は低下している。
これは、まさに「景気が悪化しているにもかかわらず、就業者数がそれほど減少していないがために起きる生産性の低迷」である。このような生産性の低迷は、景気の悪化が生産性に与える短期的な効果である。
それに加えて、景気の悪化が長きにわたると、生産性に与える長期的な効果も現れる。この長期的な効果は、短期的な効果とは全く別のメカニズムによってもたらされており、最近、一部の経済学者の間で注目されている「高圧経済論」によって説明される。
生産性低迷と物価低迷は同時進行しただけ
「高圧経済」は、財政金融政策などによって景気が加熱している状態である。政策面からこの状況を推進すべきとする高圧経済論によれば、経済がこのような景気加熱状態にあると、生産性の高い業種への労働移動や設備投資・研究開発投資・人材投資が盛んになり、長期的な経済成長率が上昇する。
それとは逆に、「低圧経済」(政府の財政金融政策などが十分ではなく景気の悪化が続いている状態)であれば、労働移動や投資が損なわれ、長期的な経済成長率が低下する。
需要と景気の関係に着目すれば、「GDPギャップが高ければ高圧経済の傾向にあり、GDPギャップが低ければ低圧経済の傾向にある」と言えるだろう。図8の緑のグラフは、GDPギャップの推移を表している。赤のグラフは、1993年以前のGDPギャップの平均値とそれ以降の平均値を表している。
【図 8】 GDPギャップの推移とその平均値
1993年以前のGDPギャップは平均値がゼロ付近であり、これが経済の一般的な姿である。それ以降の平均値は−1.2ほどであり、かなり低圧経済の傾向にあると言えるだろう。
議論を先取りすると、バブル崩壊後のマネーストックの低迷は、デフレと共にマイナスのGDPギャップによって表されているような低圧経済をもたらし、さらにこの低圧経済が図5で表されたような生産性の低迷をもたらしたのである。このメカニズムも含め、高圧経済論については、回を改めて本連載で詳しく説明する。
ここではさしあたり、図9のような波及効果のあったことを理解してもらいたい。すなわち、(1)「バブル崩壊後の景気悪化が短期的な需要不足とマネーストックの低迷をもたらした」。さらに、(2)「マネーストックの低迷が長期的な需要不足とデフレを引き起こした」。短期的な需要不足と長期的な需要不足はいずれも生産性の低迷につながっている。
【図 9】 バブル崩壊とマネーストックの低迷がもたらした効果

(1)(2)を言い換えると、日本では、機動的な解雇が起きなかったことが社内失業などを生んで生産性を低下させ、さらに、政府の財政金融政策などが十分ではなく景気悪化が続いたために、低圧経済によって生産性が低下した。
その一方で、デフレは実質実効為替レートの低下をもたらした。デフレからの脱却を目指して導入された異次元緩和は、円安を通じてさらなる実質実効為替替レートの下落をもたらした。
かくして、生産性の低迷と実質実効為替レートの低下が同時に進行し、あたかも前者が後者の原因に見えるような事態が発生したのである。
写真:AP/アフロ
(第7回に続く)