米中対立の最前線にある台湾。中国による周辺海域での軍事訓練は断続的に続き、一方のトランプ米大統領の台湾へのスタンスも未だ不明瞭な点が多い。ただ、こうした狭間にある台湾市民や台湾社会の「今」は必ずしも多くは伝わってこない。実業之日本フォーラムでは、現地台湾の等身大の姿について、ジャーナリストで大東文化大学教授の野嶋剛氏による定期連載をスタートする。初回は、現在議論が広まる台湾の著名作家が米紙に投稿したある文章をテーマに、現地で話題の「疑米論」や台湾市民の本音から論争の糸口を探った。
台湾で最も有名な女性作家が、ニューヨーク・タイムズという米国を代表するクオリティペーパーに投稿した文章が、台湾を激しく揺さぶり、深い対立をはらんだ議論の渦に巻き込んでいる。その騒動は、ドナルド・トランプ政権による米国の「変化」と中国の圧力の板挟みにあって苦悶する台湾社会の内面を映し出している。
その作家こそ、龍応台氏その人だ。4月2日の同紙に掲載された論考のタイトルは「台湾に残された時間は少ない」というものだ。
龍氏だからこそ、この騒ぎになったとも言える。1952年生まれの龍氏は1980年代、台湾メディアに連載した「野火」というタイトルのコラムで、当時の国民党一党独裁を批判する文章を執筆し、新世代の書き手として国民的な知名度を獲得した。それからも彼女の一挙手一投足は注目を集め、2002年には中国の言論封殺に抗議して胡錦濤総書記(当時)に、「文明によって私を説得しなさい」という公開書簡を出したこともある。2009年の著書『大江大海 一九四九』(日本語版『台湾海峡一九四九』)は記録的な大ベストセラーとなった。2012年から2016年までは台湾で新設された文化部の初代部長(大臣)を務めるなど、一作家を超えた文化界のスターであり、政治との距離の近さから常に議論の的でもあった。
ニューヨーク・タイムズのゲスト筆者として書かれたコラムでは、現在中国との対立関係が続く与党・民主進歩党を批判し、台湾国民党による対中融和路線こそ台湾にとってベストな未来であると主張した。その支えになっているのが、トランプ政権による米国外交政策の大きな転換である。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領を徹底的にいじめ抜くトランプ大統領の姿から、台湾の将来に不安を抱く必要があり、早く中国と平和を達成する話し合いを始めるべきだ、としている。現在の頼清徳政権は、スパイ対策で軍事法廷を復活させる [1]対中強硬路線に転換しつつあるなど、そうした昨今の国際的潮流に逆行していると批判している。
この文章が反響を呼んだことにはいくつか理由がある。まず確かに現在台湾社会には米国に対する不安が存在している。特にトランプ大統領は台湾について肯定的なことを言ったことはほとんどない。ジョー・バイデン政権以前の民主党、共和党指導者は台湾の民主や自由を称賛し、台湾を応援する理由に挙げた。だが、トランプ大統領は違う。台湾は半導体(産業)を盗んだ、台湾は保護費を払うべきだ、と主張する。台湾の民主的価値に言及したことなど一度もない。第1次トランプ政権の大統領補佐官(国家安全保障問題担当)であったジョン・ボルトン氏はトランプ大統領が「台湾はボールペンの先端にすぎない」と侮辱する発言をしたと回顧録に記している。
さらに、このコラムが乱反射を起こしたのは、台湾社会で昨今大きな問題になっている「疑米論(米国不信論)」との関係があるからだ。台湾では、アフガニスタンからの米軍撤退以来、米国のプレゼンスが今後弱まっていき、台湾はいずれ見放されるという「疑米論」が広がっている。中国の「認知戦」の一環で、台湾の親中的な論者や、TikTok(ティックトック)の動画などで情報が多元的に拡散され、実際のところ、台湾の実質的な世論にも相当の影響を与えた。2024年選挙の民進党の苦戦の一因にもなったと見られる。
龍氏のコラムへの批判で最大のものはこの文章が「投降主義」に等しく、中国のプロパガンダに迎合しているのではないか、という点だ。台湾の大多数の人々が歓迎できない「統一工作」や「軍事的威圧」を、なんの批判もなく、所与のものであるかのように受け入れているように見えるからだ。
トランプ大統領が台湾に対して「非情」となる恐れがあるのは多くの人が同意するだろう。台湾のGDP(国内総生産)は中国の20分の1以下だ。トランプ大統領は民主や自由、人権などの「価値」をもって台湾を支えようという発想はない。米国はライバルの中国の力を弱める行動は続けるだろうが、だからといって台湾に特別好意的に動くことは考えられない。しかし、こうした「異質」なトランプを恐れて、「異質」な中国とディールをせよ、という龍氏の論旨に、疑問の声が台湾で沸騰したのも無理からぬことだった。
龍氏は「台湾に残された時間は少ない」と書いているが、トランプ大統領の「改革」が失敗して急激に人気を失う可能性もある。少なくとも今の時点でトランプ大統領と習近平国家主席が手打ちをしかねないから、台湾は早く中国と妥協せよという議論は乱暴である。米中どちらとも冷静に向き合いつつ、相手が変わるのを待つというのが理性的な対応ではないのか。
筆者にとっても龍氏は何度もインタビューをした相手で、文化の力で権力に立ち向かう姿勢に魅力を感じたこともある。ただ、彼女はあくまでも文化が主戦場であり、文化人や作家の立場から政治を語るからこそ、その発言には説得力が生まれた。しかし、今回のコラムについては政治評論家や政治学者のような文章になっており、文化の匂いがほとんどしない。龍氏は、政治という戦場に踏み込み過ぎたのではないだろうか。その政治コラムとして読めば、論旨に深刻な飛躍や穴がいくつもある。
台湾の政党は、近年、独立も統一も論じることはなく、現在の繁栄と自由を守れるならば、中国を刺激する独立論を唱えることは控えてきた。しかし、軍事的威圧、スパイ活動、認知戦やサイバー攻撃による世論への揺さぶりなど、中国はありとあらゆる手を用いて台湾に統一工作を仕掛けている。
中国の論理からすれば「国家統一のために必要な措置」ということになろうが、台湾の人々が、自由で民主的な方法で自分たちの将来を決めるという原則に立つのなら、現在の中国の行為をまず批判せずに、台湾に「中国と交渉しろ」というのは、さすがにリアリズムを飛び越えた敗北主義ではないだろうか。
写真:AP/アフロ
[1]頼総統は2025年3月、中国によるスパイ活動に対応するため、軍事裁判を平時でも開けるよう運用を変更する方針を示している。軍事裁判は戦時に限られていた。