【これまでの連載】
第1回:「円の実力」はなぜ下落したのか 実質実効為替レートと異次元緩和
第2回:「安い国」を脱する方策はあるか 日銀のジレンマと第三のケインズ政策
第3回:日本が「安い国」になった原因は生産性の低下なのか
第4回:バラッサ=サミュエルソン効果とは何か——生産性と「安い国」の関係を深掘りする
第5回:「逆バラッサ=サミュエルソン効果」によって日本は「安い国」になったのか
第6回:因果関係か同時進行か 生産性低迷と物価低迷のメカニズムを解き明かす
第7回:「物価が低迷するとその分円高になる」と言えるのか 購買力平価説を考える(今回)
本連載では、これまで、日本が「安い国」になったのは、生産性の低下ではなく、世の中に出回るお金、すなわち「マネーストック」の低迷が原因だと繰り返し論じてきた。
この点について、「同じ商品はどの国でも同じ価格になるはず」と考える人は、次のような疑問を抱くかもしれない。すなわち、「マネーストックがあまり増えていかず、デフレ(ないし低インフレ)に陥ったならば、その分円高が進行して、対外的な相対物価(海外に比べた日本の物価水準)があまり変化しないように調整されるのではないか」、と。
あるいは、「今の日本でマネーストックをより多く増やして、インフレ率を上げていったならば、その分円安が進行して、やはり今の相対物価が維持されるのではないか」と考える人もいるだろう。
このような考えの背景には、「購買力平価説」がある。両国の物価が同じ水準になるように、為替レートが決定されるという説である。例えば、この世界にマクドナルドの大型ハンバーガーである「ビッグマック」しか財が存在しておらず、日本のビッグマックが400円で、米国のビッグマックが2ドルならば、為替レートは1ドル=200円になるというわけだ。
この場合、1ドルの購買力はビッグマック半分相当で、200円の購買力もビッグマック半分相当なので、購買力が等しくなる水準で為替レートが決定されている。つまり、購買力平価が成り立っているということになる。
実際はどうかというと、日米のビッグマックには、かなりの価格差がある。2024年7月の日本のビッグマックは480円である。それに対して、米国は5.69ドルであり、当時のレートである1ドル=160円で計算すると、日本円にして910円ほどだ。米国の方が2倍近く高い。
ディズニーランドのチケット代(「1デーパスポート」)にしても、日本では7900〜10900円に対し、米国カリフォルニアは日本円にして約1万5000円〜約3万円と、やはり2〜3倍の開きがある(1ドル=150円と想定。日本は2025年4月時点、カリフォルニアは2025年2月時点)。なお、日・米どちらもチケット代は日によって変動する。
世の中が「一物一価」にならない理由
上述したような「物価が他国と同じ水準になるように為替レートが決定される」というような仮説は、特に「絶対的購買力平価説」という。だが、絶対的購買力平価説は現実に当てはまらないというのが、経済学者の間ではコンセンサスとなっている。その最も大きな理由は、理髪やマッサージといった「非貿易財」(貿易できないような財)が多く存在するからだ。逆に言えば、貿易財に限定すれば、ある程度は、絶対的購買力平価が成り立つ。
例えば、iPhone16の値段は日本では12万4800円(税込み)である。それに対して、米国では799ドル(税抜き)であり、1ドル=150円とすれば、日本円にして12万円弱である。税込み・税抜きの差はあるが、日本と米国のiPhoneの値段は、それほど変わらないと言えるだろう。
非貿易財を考慮した場合には、絶対的購買力平価説は変更を迫られる。本連載第4回で紹介した「バラッサ=サミュエルソン理論」(BS理論)を、そうした変更を施した理論と位置づけることもできるだろう。すなわち、貿易財は世界的に同じ価格になるが、貿易財の生産性が異なるために非貿易財の価格は各国さまざまで、その結果生産性の高い国ほど物価が高くなるというわけだ。
「相対的購買力平価説」は現実に当てはまるか
ところで、BS理論だけでなく、「相対的購買力平価説」も現実に当てはまるとされている。相対的購買力平価説とは、「為替レートが国同士のインフレ率の差に応じて変化する」という考えだ。
仮に、米国の物価が変化せずに、日本の物価が2倍になったならば、円はドルに対して2分の1に減価することになる。1ドル=150円であったならば、1ドル=300円になるというわけだ。逆に、日本の物価だけが2分の1になったら、1ドル=150円から1ドル=75円に増価することになる。
図には、1973年基準の消費者物価相対的購買力平価を表すグラフ(赤いグラフ)が描かれている。この図では、下に行くほど円高である。
【図】 相対的購買力平価と実勢相場
右下がりの赤いグラフは、円高が進まなければ日米の消費者物価の割合が維持されないことを意味している。日本の物価が、米国に比べてあまり上昇していなかったからだ。1998年以降、日本はデフレに陥ったが、それ以前から日本は比較的インフレ率の低い国だったのである。
それ故に、円高が進まなければ、日本は米国と比べて物価が安い国になってしまう。図の実勢相場(実際の為替レート)を表す青いグラフもおよそ右下がりであり、実際に円高が進んだことが分かる。
相対的購買力平価も実勢相場も共に右下がりというこの平行性は、相対的購買力平価が実際にある程度成り立っていることを意味している。日本の物価低迷に応じて円高が進んだというわけだ。
とはいうものの、実勢相場は、相対的購買力平価の水準とピタリとは一致せずに、1985 年頃から円高方向(下方向)へ著しく乖離(かいり)している。その乖離は、1995年頃にピークに達するものの、2022年頃に相対的購買力平価の水準へと回帰している。この乖離がなぜ発生したのかは、次回で論じることにする。
写真:AP/アフロ
(第8回に続く)